青い花の布団

つかいこなせてません

 私たちは、けっして刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それはきっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けばしめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。

太宰治 女生徒)

 

どいしゃ②

友人と「私たち家族みたいだね」と話した事がある。この表現が比喩であることは言うまでもない。逆に、年に数回しか会うことのない血の繋がった親子であっても「私たちは家族ではない」と思うことはないだろう。家族の理念型として血縁の有無が判断の要因のひとつであるのは確かだ。だがそれ以外にも私は、人が精神的、金銭的に互いに支え合うことで生活を営むことも必要だと考える。サザエさんのマスオさんと波平や、養子縁組で結ばれた親子に血の繋がりがないのにも関わらず私が彼らの関係を家族であると感じるのは互いに必要不可欠な存在として接していることを知っているからだ。

どいしゃ①

 私たちの世代は学校や家庭以外に、SNS上にもバーチャルの社会を作り上げている。SNS上の流行は私たちの行動に影響を与えることが多々あるが、私は今までは素通りされていたようなイベントが突然激しい盛り上がりを見せるようになったことに違和感を感じる。身近な例は若者のハロウィンでの仮装だ。当日には、様々な写真がSNS上に載せられることが伝統のようになってきている。元々は秋の収穫を祝い悪霊を追い出すという宗教的意味合いの強い行事である。しかし、現代では若者はそのような明確な理由なしに、SNSという社会で生きる1人としてこのイベントに参加しているという点で社会的事実に拘束されていると言える。

ばいばーい

春休みが終わろうとしている

 

2.23に受験の結果が出て、そこからの約1ヶ月は映画を見たり渋谷WWWX禁断の多数決のライブに行ったり友人と遊んだりして満喫した。

あ丁度一週間後だ入学式

一週間後には全く違う生活が始まり新しい友人ができている(かも)と考えたら不思議。

高校を卒業して

私は3.15に高校を卒業しました。

 

高校はどうだった?とこの間母に聞かれた。

んー、あんまりかな(笑)と答えた。

これが率直な感想であることには変わりはない。でもこれで終わりにしちゃいけないな

感動と衝動買いについて

ある本で

感動とは事後的なものではなく、

胸がドキドキしたり鳥肌が立つなどその場で起こる身体的なものであると読んだ。

 

これを買い物に当てはめて考えてみたい。

衝動買いという言葉がある。

よく、可愛い服を見つけて目がキラキラとしたことが自分でもわかったりすることがある。(=上記の感動の定義と同じ)

でも、これは私だけではないと思うが

衝動買いは失敗することが多い。後になって、

あれ…なんかさっき感じたあの気持ちは…?

と首をかしげる羽目になるのである。

これはその対象=感動の実体

を手にしたことで初見で感じた新鮮さや発掘したことに対する感動が薄れてしまうからだろう。

 

それに対し、映画や美術作品は

意識しなければ2回接触することがないため、身体的な反応が良いイメージのまま残り、衝動買いのような残念さがない。

 

それでも、これを買うと決めて

リストアップしたものを買っても満足度は低い気がする。サプライズを事前に知っちゃってたって感じ。