青い花の布団

つかいこなせてません

どいしゃ秋①

課題:運動の出発点は生産者と消費者の提携であり、定義は農業に関わる様々な不可欠な要素の関係を考慮したものであるため、農薬の使用の有無という項目だけで有機農産物であるか否かを定めることには疑問を感じます。しかし、健康食品ブームのときのように、規制がないと偽物が現れることになるため誰もが意見が一致するような数字や科学に基づく尺度を制定することは、最低限達成するべき基準として必要だと感じます。また、運動は70年代に始まったものであり定義をそのまま現在の農業に当てはめることが必ずしも理にかなっているとは言えないでしょう。そのため地域間や生産者と消費者の間などより小さい規模で個別に交渉し制度を決めて必要に応じて修正していくのが良いと思います。

感想:有機農業という言葉を聞いたことはありましたが、危険な薬品を使っていない、環境に優しいという曖昧なイメージしかなく恥ずかしく思っていました。しかし今回の講義を聞いて定義自体に市民運動と公的な制度との間にズレがあることがわかり、ある意味では自分の有機農業の捉え方は正しかったのだと感じました。また、私の友人には菜食主義者やグルテンフリーを心がけている人もいて、食のあり方を自由に選択することは一種の流行になっているとも実感しています。それはいい面もありますが一生続けていくには限界、弊害もあり様々な食の形を能動的に調べた上で柔軟に自分に取り入れていくのがいいと思いました。

長所と短所

生活してる中で、ふと自分の長所と短所に気がつくことがあるでしょ?

それをいつも私は忘れてしまうけど、自覚できる自分の性質って信頼できるものだし忘れたくないなと思ったのでメモ

長所

  • 気分の浮き沈みが少ない、浮き沈んでもそれを客観視できる
  • 誰も損したり傷つかないように調整することが上手
  • 相手の言葉を拾うようにしてる
  • 発想がありきたりでない
  • 文芸の趣味がいい

 

短所

  • 仲良くなるまですごくよそよそしい態度をとりがち
  • 唐突になにもかもめんどくさくなり何もしなくなる
  • プライドが高い
  • 失敗を恐れて踏み切れないことが多い

 

2017.8.29 現在

土居社④

私は小学生のとき、市が企画するボランティア教室に通った。そこでは視覚障害者と手を繋ぎ町を歩いたり、聴覚障害者と手話で会話するなどボランティアをする側が受ける側のことについて学び、支えるという構図のものであった。だが実際に参加してみると、視覚障害者のほとんどは補助がなくても歩けるし、聴覚障害者の方は私たちに楽しく手話を教えてくれた。「役に立たなくては」と気が張っていた私は意外に感じ、ボランティアとは本当に必要なのかとも考えさせられた。私たちは、障害者は支援が必要な人たちであるとひとまとめにして考えてしまいがちだが、まずは純粋に目の前の相手がそれを必要としているか考えることが大切だろう。

 私たちは、けっして刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それはきっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けばしめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。

太宰治 女生徒)

 

どいしゃ②

友人と「私たち家族みたいだね」と話した事がある。この表現が比喩であることは言うまでもない。逆に、年に数回しか会うことのない血の繋がった親子であっても「私たちは家族ではない」と思うことはないだろう。家族の理念型として血縁の有無が判断の要因のひとつであるのは確かだ。だがそれ以外にも私は、人が精神的、金銭的に互いに支え合うことで生活を営むことも必要だと考える。サザエさんのマスオさんと波平や、養子縁組で結ばれた親子に血の繋がりがないのにも関わらず私が彼らの関係を家族であると感じるのは互いに必要不可欠な存在として接していることを知っているからだ。

どいしゃ①

 私たちの世代は学校や家庭以外に、SNS上にもバーチャルの社会を作り上げている。SNS上の流行は私たちの行動に影響を与えることが多々あるが、私は今までは素通りされていたようなイベントが突然激しい盛り上がりを見せるようになったことに違和感を感じる。身近な例は若者のハロウィンでの仮装だ。当日には、様々な写真がSNS上に載せられることが伝統のようになってきている。元々は秋の収穫を祝い悪霊を追い出すという宗教的意味合いの強い行事である。しかし、現代では若者はそのような明確な理由なしに、SNSという社会で生きる1人としてこのイベントに参加しているという点で社会的事実に拘束されていると言える。