青い花の布団

つかいこなせてません

フィデルカストロらによって指導されたキューバ革命は、ラテンアメリカ史における決定的な反動であったわけだが、なぜこれほどまでに進展し影響力をもったのであろうかと疑問を持った。様々な要因が絡み合った結果であると思うが、授業や文献を参照するに、フィデルが大衆を置いてけぼりにすることなく、明確なビジョンを持って大衆一人一人を革命に参加させるようにした、また可能にした絶え間ない努力の結晶であるとわかった。例えば、革命前の一九三三年のマチャド政権ごろには、国費である税金を政治家が自らの利益にしたり公共事業と名を打って国会議事堂や学校を多く建設したが、政府の役人や関係者の儲けとなり、また米国人しか入ることが許されない場所があるなど利己的な政策で、ますます労働者とブルジョワの格差は広がり、国民は怒りにくすぶり政府との壁は固くなった。それに対し、カストロらは国民が人間らしく生きることができるための制度を制定した。その中で私が興味を持ったのは、識字キャンペーンと、黒人や先住民の人間的な権利を表明したことである。私は、識字ができるようになることは人間の視野を広げ、また自らの感情を言語化できるようになるなど単に頭脳的な発達にとどまらない無限の効果があると考える。そのため、カストロがこの運動を実施させたことは革命を正しく方向付けることにとても有効であったと感じる。実際の識字キャンペーンでは若者がボランティア教員となり、山奥などにも出向いて人々に教育を普及していったという。「祖国か死か」という言葉を掲げていたというから、この運動は単に民衆の非識字者を根絶する目的だけでなく、字を読み書きできるようになることによって民衆が革命の一員と自覚させる目的も伴っている。正直、私はキューバ識字率は高くないのではないかと考えていたのだが、現在99.8%もあるということで日本や中国よりも高く驚いた。現代のキューバの教育水準が高いことは、このキャンペーンのおかげと言えるかもしれない。また、黒人や先住民に対する人種差別を撤廃する努力は、大きい意味があっただろう。だが、人種問題は根強く革命によって容易に改善されたり方向が一致することは難しい。

 ここで、授業で扱った「人種差別はどうしたらなくなるか」に関する三つの問いについて、自分なりに考察したいと思う。まず、一つ目の「人種差別の気持ちさえなければ人種概念は無害か?」ということである。これを、性別の概念と比較対照して考えてみたい。性別は、染色体の違いで科学的な差異が立証されており、例えば男性の方が体力がある→力仕事を任せやすい、また女性の方が右脳と左脳間の情報の往復スピードが速い→マルチタスクに長けているなど、科学的実証に基づいて違いを利用できる側面がある。しかし、人種の場合科学的実証は存在しない。「黒人は身体能力が高い」などというポジティブなイメージならまだ危害がないにしても、根拠のない固定観念で人種を捉えることには、危険が伴うと思った。次に、「人種概念を使わなければ人種差別は解消するか?」という問いについてである。二〇〇八年の、合衆国憲法文書が署名された町フィラデルフィアで行われたオバマ元大統領のスピーチを踏まえて考えたい。「白人たちは、この国に来た時から誰の助けもなしに懸命に働いてきたのに、自分たちの仕事が海外に奪われてしまうのを何度も目にしてきました…この人たちは、アフリカ系アメリカ人が良い仕事に就いたり、良い大学に入学したりするのは、特別扱いを受けているからだと聞かされると、『フェアではない』と感じるのです。」とオバマ元大統領は語った。私は、この演説やトランプ大統領の支持者の話などをテレビなどで目にして、現代にも残る黒人への差別は、主に若者に当てはまると思うのだが、もはや黒人の血が入っているなどの人種に対する嫌悪、憎しみは関係なしにそのような「グループ」が保護されることによって自分の特権が奪われ貶められたことによる焦りや憎しみなのではないのかと思う。だから、現代で人種概念を使わなければ差別が解消するとは思えない。特定の人種に対する怒りというのは見かけであり、実際には自分の生活に対する不満を外側に向ける対象として人種概念を利用しているのではないかと思う。三つ目の問いは、「日本に存在する人種差別と私たちはどう戦うべきか?」ということである。日本国内での人種差別というとヘイトスピーチがはじめに思いつく。これを直接的に阻止するほど一人一人に大きな力はないが、昔に比べて世間は人種差別に関するワードに敏感になり、差別は悪であるという気持ちが広まっていると思う。