青い花の布団

つかいこなせてません

国文学専攻を志望する以上、作家は何故「書く」という行為をするのかを考えなければならないと感じ、J-P・サルトルの「文学とは何か」を読んだ。文学論というよりも哲学書に近い難しい内容であり、本来の意味が理解できたかは自信がないが、今の時点でこの本を読むことができたことは財産になったように思う。
本文の「何故書くか」について書かれた章について述べていきたい。月や星などの景色を我々は知覚することによって存在させることができる。つまり、我々は《発見》することができる。しかし、それは同時に我々がそれらの製作者でないことを意味する。これを芸術的創造に当てはめて考えたい。サルトルによると、芸術創造の主な動機の一つは、世界にとって我々自身が欠くことのできないものであると感じたいという欲求である。このことはどのようにして可能になるのか。
我々は、なにかを製作する立場である以上、「終わり」というものがない。自分の製作活動を意識すればするほど、純粋な意味での《発見》は不可能となり、過程を知りすぎているゆえ、その作品を自分の規制の中からでしか判断ができないのである。具体的に「書く」という行為に当てはめて考えると、作家は自作で主人公になにが起こるのか知らなくとも、単にまだそなことを考えていないというだけで、空白のページという未来は、自分自身の意志であり計画であるため、客観的に見ることは到底できないのである。この時点では創造とは製作の不完全で抽象的な一つの契機で、他人のための芸術にしかなり得ないだろう。では、どのように作者は欲求を満たすことができるのか。そこで、読者の存在が不可欠なのだとサルトルは逆説的に述べる。読者が本を開いて作者を認めるという行為を介して、初めて自分が存在することを《発見》できるようになるのだ。
最後になったが、私は国文学専攻に進学したら、太宰治三島由紀夫を研究していきたいと思う。また、近ごろは邦画にも関心があるので、この専攻の自由な空気感の下、さまざまな分野について貪欲に学んでいきたいと考えている。